財田川事件の真犯人 谷口の冤罪を弁護士が証明!賠償金とその後は?

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財田川事件の画像
   

1950年2月28日に起きた「財田川事件」は、死刑判決が下された後、再審で無罪が確定した4大冤罪事件の一つと言われています。

当初、犯人は別件で逮捕された青年だと思われたのですが、アリバイがあることが判明。

そのため、今度は青年の仲間で、同じ事件の容疑で逮捕された谷口繁義氏(当時19歳)が、「財田川事件」の真犯人に仕立て上げられたのです。

結局、谷口繁義氏は真犯人でもないのに、死刑判決を言い渡され、34年間の獄中生活を余儀なくされることに。

ところが、1人の人物が谷口繁義氏の無罪を証明し、冤罪を晴らすのでした。

その人物の名前は、矢野伊吉(やのいきち)。

矢野伊吉氏は「高松地裁丸亀支部」の判事でしたが、確たる証拠がないことや、取調べの際の供述と調書の矛盾など、多くの問題点に気づきます。

そして、谷口繁義氏の無罪を確証するために、判事を辞めて弁護士となり、谷口氏の弁護を受け持ったのです。

そうした矢野伊吉氏の努力が実り、再審開始が確定。

再審の結果、1984年3月12日、高松高裁が下したのは無罪判決でした。

そこで今回は、財田川事件の真犯人に仕立て上げられた谷口繁義氏のその後や、冤罪で国から支払われた賠償金などについてまとめてみました。

財田川事件の真犯人は谷口繁義ではなかった

「財田川事件」とは、1950年(昭和25年)2月28日に、香川県三豊郡財田村(現在は三豊市財田町)のヤミ米ブローカーの男性(当時62歳)が、自宅で就寝中、何者かに襲われ現金約1万3000円が盗まれた事件。

当初はヤミ米取引きの関係者や、素行不良者、怨恨などを調べるも、捜査は一向に進まずにいました。

すると、1か月後、隣村の農業協同組合で2人組による強盗事件が発生。

犯人は逃走しましたが、後になり、2人のうち1人が逮捕されたのです。

逮捕されたのは「財田の鬼」と呼ばれる不良グループ一員で、「財田川事件」の犯人容疑もかかっていた青年。

しかし、青年は事件当日にアリバイがあったため、容疑者から外されたのです。

そして、その青年の供述から、強盗仲間だった谷口繁義氏を同じ別件容疑で逮捕し、ヤミ米ブローカー殺害についても追及。

谷口繁義氏は無罪を訴えましたが、勾留され、犯行の自白を強要されたのです。

(谷口繁義氏の画像)
財田川事件の谷口繁義 画像

その後、谷口繁義氏は「財田川事件」の真犯人に仕立て上げられるも、公判で無罪をひたすら訴え続けるのでした。

しかし、1957年1月、最高裁で死刑判決が確定。

死刑囚となった谷口繁義氏は、再審を求めましたが、棄却されたのです。

それでも谷口繁義氏は諦めることなく、証拠の再鑑定を求める手紙を送りつけたりして冤罪を訴え続けました。

すると、「高松地裁丸亀支部」の判事である矢野伊吉だけが、真犯人は谷口繁義氏ではないことに気づいたのです。

財田川事件の冤罪を矢野弁護士が証明

財田川事件の冤罪を証明した矢野伊吉氏は、谷口繁義氏が証拠の再鑑定を求める手紙を送りつけた「高松地裁丸亀支部」の判事でした。

しかし、矢野伊吉氏は谷口繁義氏の無罪を晴らすために、判事を退官して弁護士となり、谷口氏の弁護人になったのです。

そもそも谷口繁義氏を真犯人と決めつける物的証拠は、以下の通りでした。

犯行当日に谷口がはいていたとされる「国防色中古ズボン」である。

これに「微量血痕(けっこん)」が付着しており、それを2人の法医学者が鑑定した結果、1人は「微量で血液型を判定するには十分ではない」としたが、東京大学教授の古畑種基(ふるはたたねもと)は「きわめて微量であるため十分な検査をすることができなかったが血液型は(被害者と同じ)O型と判定せられる」

それ以外は確たる証拠がない上に、捜査報告書や、参考人の供述調書などの記録がすべて紛失しているのが判明。

証拠が完全ではなかったのと、矢野伊吉氏は以下の矛盾を指摘したのです。

矢野弁護士は谷口氏が書いたとされる5通の手記の文字遣いや筆跡などから、捜査官が偽造したものではないかと疑いをもち、自白調書の不自然な変遷や客観証拠との矛盾など多数の問題点に気づいた。

一時は高松地裁丸亀支部で死刑判決を受け、1957年に刑が確定するも、矢野伊吉弁護士はその後も再審の訴えを続行。

そして、1979年(昭和54年)6月7日、弁護団の懸命な活動が実り、ようやく高松地裁は再審開始を決定。

1981年3月14日に検察側の即時抗告が棄却され、再審が始まったのです。

最高裁決定は、再審での「財田川事件」の争点について、以下のことを検討しました。

(1)被害者の下着には血が付着し、自白によれば谷口の手や奪った紙幣にも血がついていたというのに、被害者の腹部に巻かれていたという胴巻に血がついていないのはきわめて不自然。

(2)現場には大量の血液が流出、飛散していたが、残されている犯人の血痕足跡は四つしかなく、自白にある行動に符合する血痕足跡がないのは甚だ不可解。

(3)農協強盗傷人事件で連行される際、オーバーの小さなポケットに、本件での強奪金の残りである百円札80枚余りを丸めて入れ、警護の警察官7、8人の目を盗んで、手錠をかけられたまま車外に投げ捨てたという点でも自白の信用性に疑いがある、などの諸点をあげ、これらの疑問点がすべて解明されない限り、自白の信用性には疑いを抱かざるをえない、とした。

さらに、事件当時に谷口が履いていた靴が、証拠物として提出されていないことにも、疑問を投げかけた。

そのうえで、白鳥決定の原則を具体的に適用するにあたっては、確定判決が認定した犯罪事実が誤っているとの確信に至るまでの必要はなく、その事実認定に対する疑いが合理的な理由に基づくものであることを示せば足りる、とした。

そして、谷口が書いたとされる手記について、本文は谷口の筆跡ではないという鑑定結果が新証拠として出ているが、その鑑定の正確性について十分吟味しないで、再審請求を退けたことも問題視した。

引用元:コトバンク

再審の結果は、1984年3月12日に高松高裁で言い渡され、谷口繁義氏はついに無罪が確定。

このとき谷口繁義氏はすでに53歳。

逮捕から34年が経っていたのです。

財田川事件の賠償金とその後は?

谷口繁義氏が無罪になっても、「財田川事件」の真犯人が捕まっていないため、いまだ未解決となっています。

一方、冤罪で苦しめられた谷口繁義氏は、釈放された後に、約7500万円の賠償金を国から受け取りました。

その後の谷口繁義氏は、香川県琴平(ことひら)町で生活していましたが、現在はというと、もうこの世に存在していません。

谷口繁義氏は2005年(平成17)7月26日、脳梗塞で入院していた香川県琴平町の病院で、心不全のため死去。(享年74)

弁護を受け持った矢野伊吉氏のその後は、谷口繁義氏の無罪を見届けることなく、1983年(昭和58年)3月に亡くなっています。(享年71)

また、死刑確定後、無罪となった「4大冤罪事件」には、財田川事件のほかに「免田事件」、「島田事件」、「松山事件」があります。

各それぞれで支払われた賠償金だけ見ていくと、「免田事件」の免田栄氏は、31年7か月の拘禁に対して、9071万2800円の補償。

「島田事件」の赤堀政夫氏は、34年8ヶ月の拘禁に対して、約1億2000万円の補償。

「松山事件」の斎藤幸夫氏は、28年7ヶ月の拘禁に対して、7516万8000円の賠償金が支払われています。