俳優の高嶋政宏(53)、高嶋政伸(52)兄弟といえば、父親はタレントの高島忠夫さん、母親は元宝塚歌劇団の星組男役トップスター・寿美花代さんという「元祖芸能一家」として知られています。
さらに、従妹にはヴァイオリニストの高嶋ちさ子(50)が居たりする高島家ですが、実は政宏・政伸兄弟には、生後5カ月で亡くなった兄が1人いたのです。
兄の名前は道夫ちゃんといって、本当なら高島忠夫さんの長男にあたります。
しかし、長男は、当時やとっていた家政婦の手によって命を奪われたのでした。
これが、有名な「高島忠夫の長男殺人事件」です。
政宏・政伸兄弟からすると、すなわち「兄殺人事件」ということになります。
そして、犯人の家政婦はというと、当時の年齢は17歳。
未成年ということもあって、判決は懲役3年から5年という不定期刑でした。
量刑は至って軽いもので、家政婦はすぐに出所。
その後は、結婚して新たな生活を始めたそうです。
そんな「高島忠夫の長男殺人事件」は、政宏・政伸兄弟が生まれる前に起こったのですが、2人が生まれた後も、高島家に再び事件が起きたといいます。
それは、幼少期のころの政伸を誘拐するという、予告電話が犯人からかかってきたというもの。
身の危険を感じた政伸は、その後、犯人から身を守るために、刑事と半年間同居して過ごしていたのでした。
そこで今回は、「高島忠夫の長男殺人事件」や、「高嶋政伸の誘拐未遂事件」について、まとめてみました。
高島忠夫の長男殺人事件とは
高島忠夫さんの長男殺人事件とは、息子・政伸がまだ生まれる前の1964年8月24日、当時、高島家に住み込みで働いていた17歳の家政婦が、夫妻の長男・道夫ちゃん(生後5カ月)を風呂に沈めて命を奪った事件。
しかも犯人の家政婦は、物取りの犯行に見せかけるため、室内を荒らして物色されているように装っていたのです。
高島忠夫さんと寿美花代さんは、1961年のテレビ番組『季節のミュージカル』の共演をきっかけに知り合い、その後交際に発展。
2年後の1963年に結婚しました。
そして、寿美花代さんは、翌年の3月に長男・道夫ちゃんを出産。
寿美花代さんは、長男出産後も女優業を続けていましたが、子守りは家政婦に任せていたといいます。
しかも、その頃の寿美花代さんは、炊事に洗濯、掃除といった家事が全く出来なかったらしく、そのため家政婦を3人ぐらい雇っていたのだとか。
その中の1人の家政婦が事件の犯人で、当初この家政婦は警察に「不審な男が歩いてるのを見た」、「長男が激しく泣いてるのを聞いた」などと証言。
しかし、他の家政婦の中で不審者を見た者は誰ひとりとおらず、長男の泣き声を聞いた者もいなかったのです。
また、当時、高島家では、不審者が近づくと、飼っていた犬が激しく吠えていたのですが、事件当日の夜は吠えていなかったことも判明。
その後も次々と不自然な点が見つかったため、家政婦を問いただしたところ、自分の犯行であることを認めたのです。
寿美花代さんは、テレビに出演した際、当時のことをこのように振り返っています。
「夜中に、道夫がどこでもいないってことになって、探し回った。一番最後にお風呂を…フタを明けたら、道夫がいた…。(道夫の周りに)泡がいっぱい出てて…。夜中2時すぎぐらいで、あちこち病院行ったけど、どこも受け入れてくれなくて。やっと1軒受けてくれた時には…」と。
そして、現在も道夫ちゃんの写真を手帳の奥にしのばせ、肌身離さず持ち歩いているという寿美花代さんは、当時の心境を涙ぐみながら、このように吐露しています。
「私が一緒に寝てやらんかったから…。忠夫にそっくりでね…。なんで殺されなあかんかったのか、分からないんですけど…」。
さらに現在も、「いまだに、お風呂っていうとシャワーしか浴びれない…」と、いまだ苦しみ続けていることを明かしています。
高島忠夫の長男殺人事件の犯人は家政婦
高島忠夫さんの長男殺人事件は、熱狂的宝塚ファンであって、寿美花代さんのファンでもあった17歳の家政婦が犯人でした。
高島家の家事全般をその家政婦らがやっていたのですが、もともと家政婦は、専門の紹介所から来た訳ではなかったそうです。
犯人の家政婦は、地元・新潟県の中学校を1963年に卒業してから上京。
当初は、東京都墨田区にある会社で働いていたといいます。
ただ、たまたまこの会社に高島夫妻の知り合いがいたこともあり、1963年暮れから高島家に、家政婦として住み込みで働くことになったのだとか。
そんな家政婦を、高島夫妻はよくかわいがっていたそうです。
一方、家政婦はというと、寿美花代さんのアクセサリーを盗んだり、高島家の来客の財布から1万円を抜き取ったこともあったといいます。
それでも高島夫妻はクビにせず、最終的には高島忠夫さんが付き人として、仕事に同伴させるようにしたそうです。
家政婦は、そんな高島夫妻の良心を踏みにじったわけですが、犯行の動機についても、このような自分勝手な理由を述べているのです。
「高島夫妻に長男が生まれた後は、長男へ愛情が移ってしまい、自分は疎遠に扱われるようになったと感じていた。」
そして、「高島夫妻が仕事でアメリカへ行くことが決まった時に、他の女中へはお土産を買ってくると約束していたのに、自分は何も言われなかった」と、思い悩んだ末に犯行に及んだことを述べたのです。
高島忠夫の長男殺人事件 犯人の家政婦の判決やその後
高島忠夫さんの長男殺人事件の犯人だった家政婦は、1965年6月に行われた裁判で、懲役3年から5年という不定期刑の判決が下されました。
本来なら、もっと重い刑罰が下されてもよいところですが、当時、家政婦は17歳で未成年だったことから、このような判決が下されたのです。
その後、刑務所で模範囚だった家政婦は3年で仮出所。
2年後の1970年に結婚したらしいのですが、相手はこれまでのことを知った上で、この家政婦と結婚したといいます。
その後、家政婦は事件の犯人として、数々のメディアに登場し、当時のことや高島夫妻に対し、このような謝罪の弁を述べています。
「高島さんに詫びる気持ちは生涯変わりません」「(命日には)道夫ちゃんの写真の前にお花とかお菓子を添えて深くお詫びしているのです。これだけは一生欠かしません。道夫ちゃん、高島さん、奥さま、本当にごめんなさい」
高嶋政伸の誘拐未遂事件
高嶋政伸は、幼少期のころに誘拐されそうになりました。
事の発端は、見知らぬ人物からの誘拐予告電話だったらしいのですが、当時は長男の事件のこともあり、いたずら電話が頻繁にかかってきていたそうです。
昔は、芸能人の子供が誘拐されるという事件は珍しくなかった時代。
1955年には、人気芸人・トニー谷の長男が下校途中に誘拐され、身代金200万円が要求されているし、1974年には津川雅彦・朝丘雪路夫妻の長女・真由子が誘拐され、身代金400万円が要求されています。
※津川雅彦の娘誘拐事件の詳細はこちら
この2件は、無事犯人も捕まり、子供も解放されていますが、1997年に梶原一騎の長女が誘拐された際には、犯人への身代金受け渡しの失敗から、命を奪われてしまったのです。
政伸の場合も、身の危険から刑事と半年間同居していたらしいが、結局は未遂に終わったということです。