岡田有希子の遺書 原因は相手の峰岸徹?内容や母親の死因は?

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岡田有希子 画像
   

1986年4月8日、突如、アイドルだった岡田有希子さんは自ら命を絶ちました。(享年18)

あの悲劇から33年が経ちますが、伝説のアイドル・岡田有希子さんとはどんな人物だったのでしょうか。

今回は、亡くなる直前まで岡田有希子さんと一緒にいた、事務所の元専務・福田時雄氏の話しを元に、遺書の内容や自殺の原因。

相手の峰岸徹氏とのウワサや、母親の死因などについて調査してみました。

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岡田有希子とは

まず、岡田有希子さんがどんな人物だったのかについて、紹介したいと思います。

岡田有希子さんのプロフィールですが、本名は佐藤佳代さんと言って、1967年8月22日、愛知県一宮市に誕生しました。

愛称はユッコ。

アイドルに憧れていた彼女は、中学2年のときにオーディション番組「スター誕生!」に応募し、翌年、中学3年生のときに名古屋地区予選に出場しました。

そして、予選を突破したものの、本戦出場は厳しくなったのです。

理由は、両親が芸能界入りを反対したため。

それでも、アイドルになるのを諦め切れなかった岡田有希子さんは、母親とある約束をします。

それは、学年で1位、模擬試験で全国5位以内、あと、地元の難関校「名古屋市立向陽高校」に入学すること。

この条件をクリアすれば、本戦出場を承諾してもらえることになったのです。

岡田有希子さんは、その日からおよそ半年間、猛勉強。

そして、見事すべての条件をクリアし、本戦出場を果たしたのです。

本戦では、憧れの松田聖子と同じサンミュージックにスカウトされ、晴れて芸能界入りを果たし、堀越学園芸能コースへ編入。

1984年4月、16歳でデビューすると、清楚な雰囲気と愛らしい笑顔がウケ、「ポスト松田聖子」と称されたのでした。

晴れて芸能界デビューした岡田有希子さんは、歌謡大賞新人賞、レコード大賞新人賞など、1984年度の新人賞を総ナメするなどして活躍。

最後のシングルとなった「くちびるNetwork」は、憧れだった事務所の先輩・松田聖子が作詞し、大ヒットを記録しました。

この曲で初のオリコン1位を獲得。

名実共に、トップアイドルへ上り詰めた岡田有希子さんでしたが、この曲の発売から3ヵ月後の1986年4月8日、突如、自ら命を絶ってしまったのです。

なぜ彼女は自殺しなければならなかったのか。

自殺の原因について調査してみると、事務所の元専務・福田時雄氏が一部始終告白していたので、紹介したいと思います。

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岡田有希子の自殺は相手の峰岸徹が原因?

岡田有希子さんは、トップアイドルとして絶頂期を迎えた1986年4月8日に、所属する「サンミュージック」の屋上から飛び降り自殺を図りました。

岡田有希子さんの訃報は、連日ワイドショーなどで報道されると、これに端を発した若者ファンの後追い自殺が続出。

そのため、大きな社会問題に発展しました。

結局、岡田有希子さんが自ら命を絶った原因は何だったのか?

当時は、自殺の真相について様々な憶測が飛び交うことになります。

まず、その1つが1985年に放送された遺作ドラマ『禁じられたマリコ』で共演した、俳優の峰岸徹さん(当時42)が原因とされた説。

相手の峰岸徹さんとは、このドラマの共演で仲が深まり、当時は男女関係のウワサがささやかれていました。

岡田有希子 相手 峰岸徹 画像

岡田有希子さんが亡くなった当日の記事にも、遺書に峰岸徹さんの名前があったと報道。

男女関係のもつれが、自殺の原因とされたことに世間が騒然となったのです。

しかし、相手の峰岸徹さんは、岡田有希子さんが亡くなった当日の夜に緊急会見を開き、恋愛関係を否定。

あくまでも、兄のような存在で恋愛感情は無かったとコメントしたのです。

また、男女関係のウワサに峰岸徹さんの名前が挙がる一方で、神田正輝とも付き合っていたという話もありました。

岡田有希子さんは、亡くなったとき、妊娠3ヶ月だったというウワサがあります。

その相手が神田正輝という説が有力ですが、ほんとうに妊娠していたかどうかは謎のまま。

また、一説によると、好きだった神田正輝が、松田聖子と結婚したことにショックを受けたのが自殺の原因とされています。

さらには岡田有希子さんが、神田正輝の子を身ごもったため、代わりに峰岸徹さんが責任を負うはめになったなど、あらぬウワサまで立つ始末。

結局、峰岸徹さんも亡くなっている今となっては、真相は闇の中というわけです。

岡田有希子の遺書の内容

岡田有希子さんが亡くなった後、遺書のような日記風のノートが発見されたそうです。

その遺書の内容は、峰岸徹さんの名前はもちろんのこと、岡田有希子さんが峰岸さんを思い、そのことがうれしくて、喜ぶさまがつづられていたとか。

一方で、その恋は成就することがないと判断し、真綿でクビを絞められるような苦しみが、実直につづられていたといいます。

「サンミュージック」の創設者である故・相澤社長の話では、当時の岡田有希子さんは仕事や恋に悩み鬱病を患っていたとか。

遺書の内容には、峰岸徹さんにフラれたことや、「もう一度会いたかった……勝手なことをしてごめんなさい」と書かれていたそうです。

そんな岡田有希子さんは、亡くなる日の早朝、自宅で1度目の自殺を図っていました。

ただ、1度目は未遂に終わったのですが、危険を察した元専務・福田時雄氏は、岡田有希子さんを事務所に連れて行っています。

当日は、岡田有希子さんを6階の社長室に連れていき、福田氏と付き人の女性が寄り添っていたそうです。

福田氏によると、しばらく付き添っていたらしいのですが、相澤社長から電話が入ったため、隣の部屋に移動したといいます。

その隙に岡田有希子さんは、もう1人女性に「トイレに行く」とかウソをついて部屋から出て行ってしまった。

福田氏が電話を終えて部屋に戻ると、岡田有希子さんがいなかったため探し回ると、屋上に病院から履いて帰ったスリッパがきれいに並べられていたそうです。

一瞬目を離した隙に岡田有希子さんは、命を絶ってしまったわけですが、かんじんの自殺の原因について福田氏は、少し苦しげに、当時を振り返っていました。

1度目は「関係を噂された男性への一途な思いが遂げられない葛藤に悩んだ末の行動」。

やはり、自殺の原因は、岡田有希子さんが峰岸徹さんに恋焦がれ、叶わぬ愛を持ち続けて行為に及んだということだろうか。

しかし、福田氏は2時間後の自殺は、1度目の自殺未遂が周りに迷惑をかけた、過ちへの自責の念ではないかと語っているのです。

あくまで、男女関係が真相だったことを否定したのでした。

岡田有希子の母親の死因

岡田有希子さんは、中学2年のときにも、自殺を図ったことがあったそうです。

その原因ですが、母親の孝子さんの著書によると、岡田有希子さんは幼少期から成績が良く、先生からも可愛がってもらっていたとか。

ただ、そのことで同級生たちと うまくいかなかったことがあったようです。

また、ちょうどその当時、ニコンのフレッシュギャルに応募することを、母親や担任の先生に反対されていたことが重なったりして、気持ちが不安定になっていたことも原因の一つだったとか。

結局、その後の岡田有希子さんは、ニコンのフレッシュギャルに応募して、準グランプリを獲得。

中学3年のときには、大阪城で開催された「ニコン 中・高生のためのカメラ教室」の写真モデルになったのでした。

そんな岡田有希子さんには、父親と母親の両親と、姉が1人います。

しかし、両親は彼女の死後、20歳の誕生日を待って離婚。

離婚した際、姉は父親の方についていったため、母親は1人きりになってしまったそうです。

その後、母親は精神疾患を患って、長期にわたり病院に入院していたとか。

そして、その母親も、現在は亡くなっているそうです。

一説には、母親の死因は自殺とされていますが、あくまでウワサなので真相は不明。

ただ、離婚した父親は、姉夫婦とその子供の4人で暮らしていて、現在も健在ということです。

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